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渡邉大輔(日本映画史・映画学専攻『イメージの進行形』著者)

「『VILLAGE ON THE VILLAGE』の黒川幸則は、(『ジョギング渡り鳥』の鈴木卓爾や『季節の記憶(仮)』の只石博紀がそうだったように!)最強の仲間たちと「映画」の臨界点を軽々と越えてゆく。実際、只石演じる「伊藤さん」は嘘のような自然さで唐突に○○に変貌し、人間の主人公と気やすい会話を交わすだろう。作中に登場するボールや空き缶といった無数のオブジェクトが、幽霊のように宙ぶらりんの時間をたゆたう人々と同等か、それ以上に魅力的に映画世界で戯れるこの荒唐無稽さは、いわばすべてがフラット化するデジタルシネマの隠喩でもある。いささかのうさん臭さを秘めた登場人物たちとともに、私たちは現代映画の「夏」へとここちよく誘われるだろう」

宇波拓(音楽家)

映画に死者があらわれるとき、その多くは「もう一度会いたい」にせよ、「恨みをはらす」にせよ、生者に対してなんらかの目的を持っている。だから祓われたり、想いを遂げたら消えてしまったり、または生きている人間の意識が生んだ幻影のように処理されてしまったりする。しかしそれではまるで、死者は生きているもののために存在しているようではないだろうか。死者には死者の事情が、日常があるのではないか?出てきていないとき、幽霊はなにをしているのか?ひょっこりひょうたん島の登場人物たちは全員死んでいるらしいが、自分たちがいるのが「あちら側」だとは想像だにしていないのでは?

生から死への移行はたぶん、後戻りのきかない変化だろう。だが、「この世」と「あの世」が断絶ではなく、位相のずれたふたつの現実だとしたら。

『VILLAGE ON THE VILLAGE』は、墓石をどけると黄泉の国への階段がある水木しげる『河童の三平』的死生観と、ふたつの異なる国家が同じ領域に違いを認識せずあるチャイナ・ミエヴィル『都市と都市』的地政学とを、ひと夏のウッカリ与太話として映し出す、未来から現代を照射した「むかし話」。『A.I.』の未来人にぜひとも発見してほしい映画である。

金子遊(映像作家・批評家)

「黒川監督は内田百閒、沖島勲につらなる異才だ。
人生を半分おりた魅力的な人たちと、日常の延長上に暮らす死者たち。
三多摩地区の地霊を呼びさます、飄々とした傑作である。」

磯田勉(フリーライター)

昼間からビールで喉を潤し、せせらぎをざぶざぶと進み、夕べに涼み、好きな子の前でカッコつけ、知らない町を愛で、死と戯れる。岸辺を旅しない、母と暮らさない、そんな人びとのお話。火照った体に薄くまとった夏の汗をクールダウンさせるこの風通しのよさには誰も抗えない。午睡のまどろみを唐突に破る〈男の出発〉はこんなにも軽いのに。

渋谷哲也(ドイツ映画研究者)

映画の夢とは楽園や地獄の手前にあって、限りなく煉獄に近いのだろう。時間が無くなったような場所、なのに人々は世俗の記憶とともに行動している。運動も持続しない。そもそも一瞬の次にどんな一瞬がやって来るかもわからない。そして浄化の炎はひたすら先延ばしにされる。ただ人が集ってきて、またどこかへ去ってゆく。単純なのに秘密めいた場所。映画という「村」に憑りつかれた人々の物語には甘い毒のようなリアルさがあった。

大寺眞輔(映画批評家)

まるでシェアハウスのように微温的で愛想が良く健全を装ったこの作品は、実のところ気がつけばこちらの一番無防備な皮膚の裏側へと静かに浸透し始めるキケン極まりない傑作である。誰にオススメされるまでもなく自然発生した匿名の群衆が雲霞のごとく劇場へと押し寄せるか、あるいは残酷なまでに客が来ないか、どちらかの未来しかこの作品には似つかわしくないだろうが、この2016年のニッポンにおいて前者を願うのはやはり楽観的に過ぎるであろうか?

sei (歌手/ju sei、せいみゅー)

ju seiの田中淳一郎が主演・音楽の『VILLAGE ON THE VILLAGE』試写に行ってきました こそばゆさにヘラつきながら気づけばあの長靴必須の池に引き摺り込まれている 夏に公開って最高 あとやっぱり音楽が素晴らしくないですか!?あとなんで私出てないの!?黒川さん!

千浦僚(映写技師・映画文筆家)

「Village On The Village」、よかったです! 日本映画に、鎮西さん、いまおかさん、そして本作の流れがあるんだ!と思いました。人物が愛らしく、全体的に風通しがいい感じ。あと山形さんが書かれたんでしょうか、あのセリフは聞いててやみつきになります。中原昌也の小説みたいなバカバカしいクリシェのしゃべり! 妖怪、幽霊的なものもよかったです。かつて一緒に遊んでいたのに変わってしまったりした友人たちを思い出さされました… すばらしい映画でした。ありがとうございました。

小原治(ポレポレ東中野スタッフ)

黒川幸則監督最新作『VILLAGE ON THE VILLAGE』DVDで拝見。世界と戯れる楽しさがあった。映画の中では奇妙な境界線が機能していたけど、近代以前の日本人は案外こんな感覚の中を生きていたのかもなぁーと、謎の親しみを感じながら見ていた。とても面白かった。バンドのツアー中に仲間外れにされた男がとある町で過ごすひと夏。そこでの出会いと別れが思い出に変わる前に画面に映し出されていくようだった。もう少しこの時間に浸かっていたい、僕も一緒にビールが飲みたい、そんな居心地の良さも。スゲー好き。

平倉圭 ‏(芸術論・知覚論 『ゴダール的方法』著者)

『VILLAGE ON THE VILLAGE』、すごかった!
『VILLAGE ON THE VILLAGE』はこの世ならぬパンチラインが飛び跳ねてた

太田信吾(映画『わたしたちに許された特別な時間の終わり』監督 俳優)

風を感じ、深呼吸して、誰かとビールを飲みたくなる、知らない街を散歩したくなる、そんな映画でした。他者を受け入れる登場人物たちの心の余白は懐かしさとともに未だに難民排斥や紛争が続く時代に確実に必要な映画だと思う。脚本も、日常の中に隠れた小宇宙のようなロケーションも、魅力的な俳優陣(中でも伊藤さん役の人のノイジーさ・異質さに僕はとても惹かれた)、すべてが有機的に絡み合っている強い映画だと思います。みなさん素敵な映画をありがとうございました。

吉田広明(映画評論家・『亡命者たちのハリウッド』著者)

流浪のミュージシャンが幽明境を旅するひと夏。ユーモアと禍々しさが同居する摩訶不思議な映画的時空間が立ち現われる。平屋の一軒家、婉曲する坂道、川辺、押し入れ、向かい合う窓と窓。人と人が交差すると、何気ない空間がいつの間にか異空間に変貌している。そうした空間の選択を含め自主製作、低予算の条件が、演出によってこそカヴァーされているのを見るのは何とも嬉しい体験だ。

神村恵(ダンサー・振付家)

こないだ黒川幸則さんの映画「village on the village」を見てリヴェットの「セリーヌとジュリーは舟でゆく」を思い出していたのだが、リヴェットさん亡くなったのか。。
どちらも日常を生きたまま向こう側の世界に横滑り的に入り込んでしまうような作品

川瀬陽太(映画俳優)

黒川幸則監督『VILLAGE ON THE VILLAGE』試写、だん。黒川さんとは脚本作数本、監督したピンク一本に出た事がある。そのどれも人を食った(本人が無自覚なのがまた・・・)作品なのだが今回こそ「我は黒川幸則なり」と高らかに名乗りを挙げた決定版だなと。8月公開。

赤坂太輔(映画批評家・New Century New Cinema主催)

知らない町の不確かな住人たちの台詞や行いは意表をついて楽しく、ついつい見入ってしまう。
画面が跳ぶ時、音は最高に面白く、女性たちは離れて撮られている時も、魅力的。
その後ろ姿も快く、色のリズムや動きは境界を超えて遊ばせてくれる。
いきつけの店のお酒のように、ずっとどこかの映画館でかけてもらっていて時々見直しに行ってみたいような映画なのだ。

山下望(批評誌アラザル)

一でなし、二でなし、ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ

とりあえず一でもなく、二でもないのはソロプロジェクト・のっぽのグーニー、二人組ユニット・ju seiの「ju」の方こと田中淳一郎の出演作を観るのは何気に三本目、彼が俳優として近年のインディペンデント映画界で引く手数多なのはなぜなのか? 本業の音楽はまったくその手の伊達男な作風では無いのに、キザな台詞を言わせるとやたらと巧いからだと思われる。そんな初主演作『VILLAGE ON THE VILLAGE』は、たまたま同時期に同じく川辺を舞台にした鈴木卓爾監督の『ジョギング渡り鳥』と続けて観ると、毎朝規則正しく運動する健康の意識など微塵もない「満点の外道」(劇中のラップより)どもが卓袱台でお茶ではなくワインやビールを酌み交わしてダラダラ転がっている映画だったので落差がすごい。まあ、あちらの映画でも片田舎の焼肉屋で異星人に囲まれながらビールを飲んでいましたが。

まずのっぽのグーニーのアルバム『賛歌賛唄』を聴いてみれば、牧歌的なメロディーで油断させておいて「金」について歌っていたのかと気づいた瞬間に『夕焼けの空みたく いつの間にか消えてる 朝焼けの星みたく 瞬く間に消えてる お金/そっとしていても 腹は減る 足し算と引き算のために 今日も早起き 明日も/歩こう 電車は止そう 歩こう バスは止めよう』という飄々としてさりげないフレーズが胸を打つ「原子番号79」に顕著なように、生真面目にミクロな視角で日常の無意味スレスレな隙間を切り取った写実的な叙情性のある歌詞がギターとピアノと電子音の職人技的な演奏で引き伸ばされたりねじ曲げられてゆく深いのか浅いのか軽いのか重いのか一見掴み難いエクスペリメンタルなソングライティングが奇妙な熱を帯びて作り込まれているのがわかるのだが、それとは裏腹に等身大の日本映画の趨勢からは浮き上がった無国籍アクションスターみたいなありそうもない爽やかさで田中淳一郎が演じる、ツアーの途中でマネージャーから見放されて町に流れ着いたバンドマンのナカちゃん(活動休止中のため歌いそうで歌わない、近藤さんが歌う場面で伴奏のギターは弾く)と、出入り口が開けっ放しの風通しが良い長屋みたいな家に男女の別なく若者を拾ってくる陽気な人でなし感を前後の説明抜きで醸し出している鈴木卓爾が俳優としての顔力を発揮している古賀さんと、古賀さんが連れてきて酒場の店員として居着いている化粧が濃いアヤちゃん(柴田千紘)が何をするでもなく戯れ合っている黒川幸則監督、脚本がcore of bellsの山形育弘の『VILLAGE ON THE VILLAGE』は、約十年前に日本で公開されたジャン=リュック・ゴダール監督のサラエボで失踪したオルガが森の中で人々がビーチバレーに興じる岸辺に辿り着いた『アワーミュージック』第三部が延々と続くのを七十六分に切り取った、ものに「天国編」から「欣求浄土」に翻って、庭の池底に沈めておいた骨董の焼き物の皿小鉢やグイ呑み達が喋り出して人間に化ける山川草木悉皆成仏な小説『田紳有楽』を書いた藤枝静男の世界観をブレンドしたような感じだというのが観た直後の感想です。

『河は、何かが流れてくる、向こう側に渡る、水面を漂う、潜る、など、何かこちらとあちらの関係、不意にあらわになる外側、どこか向こう側に向かって動き出す、といったことと結びつきやすい場所なのかもしれません。三途の川を例に挙げるまでもなく、河岸と彼岸を表現するのに、監督や脚本家が、自然と選び取る場所なのでしょう。』(「黒沢清、21世紀の映画を語る」より)

独り身でも夫婦(カップル)でもない呑み仲間、あの世でもこの世でもない三途の川、次第にこの映画のそこかしこが「三」に憑かれている事実が浮上してきたのだが、ロラン・バルトの映像論『第三の意味』でエイゼンシュテインのフォトグラム(フィルムの静止画)の分析作業から抽出されてくる反=物語的な「情報伝達」でも「象徴表現」でもない、リアリズム的になにも再現していない映画的なものの豊かさとは「言語活動と分節化されたメタ言語が終わるところから始まる」「批評家のメタ言語を無益なものとする〈鈍い意味〉」であり、言語で叙述しうるとするなら「意味(意味の希求)が抹殺された一種の傷跡」としての俳句の形になるだろう、と提唱していたのだった……蛙飛び込む水の音。ここでバルトが「文化、知識、情報の外側に広がっている取るに足らぬもの」、「言葉の遊び、滑稽なこと、無益な消費、の種類に属している」ものとして何とかつかまえようとしている、『私の理解がどうしてもうまく吸収することのできない追加分として、“余分”に生ずる、頑固であると同時にとらえどころのない、すべすべしていながら逃げてしまう意味』、『〈意味されるもの〉の文明の外に現われるように強いられた映画的なものは、(世界の映画のかぎりない数にもかかわらず)まだまれであるということは驚くにはあたらない(エイゼンシュテインの作品におけるいくつかの輝きがそれである。ほかのものにもあるかもしれないが)。そのことから、テクストと同様に映画はまだ存在しないのだと主張してよいかもしれない。ただ言語的なもの、物語的なもの、詩的なものとしての“映画”だけがあるのであり、……』とまで言っている〈鈍い意味〉、それは化粧の濃さの違いや髪の毛の量、髭の流れ、“水から出された魚”のような半開きの口といった不完全な記号性から発しているというのを念頭に眺めてみるならば、窓越しや柵越しのフレーム内フレームを多用した、なおかつ静謐に稠密なトーンで緑の生い茂った背景と人物の濃淡の境目が水辺の植物に溶け込んでいって微睡みを誘う渡邉寿岳による撮影からして、どこで筋道を見誤って人間と元人間だったようなものが入れ替わったのか観客に気付かせない迷宮世界ということでは水木しげるの『河童の三平』好きも必見!!という画面の特徴を付け加えておきたい、というか川に釣りに行って目が覚めたら決して人間界と交わってはならない掟の河童と三平が間違われる話(「人間の子どもがまぎれこんできたのは 三万年ぶりだ」)、だったという記憶に基づいてこれを機に読み返してみたら、生みの親の父母に「五年か十年にひとりかふたりの人しかはいってこない山奥」の村に置き去りにされて身寄りのなかった少年の三平が世話になっていたお爺さんが食い意地の張った死神に連れ去られてしまい、天涯孤独になりかけた所に現れた生き写しの分身のような河童のかん平と近所に棲んでいたタヌキと一寸法師の小人達……といつの間にか増えていった仲間を引き連れて全地球の地下にいる河童一族の滅亡を救うために冒険の旅に出たはずが戻って来たのが身代わりの方だけだった、でも世間には黙っておいてほしいという無常に幽けき寂寥感が漂うラストに呆然としている二〇一六年なのですが、あと水木しげるの漫画を読み返していて思ったけどナカちゃん達を彼岸に導くもう一人のヒロイン、近藤さん(佐伯美波)の透明感ならぬ冥府魔道感のある佇まいも素晴らしいですね。で、そもそも何が言いたかったのかというと正直言って途中からいつ水面から河童が出てくるのかと身構えてこの映画を観ていたのだが、姿の有る無しに関わらず、古今亭志ん生の「替り目」も顔負けのよく喋るろくでなしは沢山出てくる。そこで「酔うってえとなんか忘れて、そして怒鳴っている人がいますな、夜遅くなって、また歌なんぞ歌ってね、あぁ一でなし、二でないよ、三でなし、四でなし、五でなしろくでなし、七でもなければ八でもないよ、九でなし十でなし十一十二十三十四、こりゃ止まらねえな」といった調子で帰ってきた亭主が寝る前にどうしてもこれが要る、呑んで帰ってきたのにまた呑むの?何かちょっと摘むものはないのか?こんなに遅くなったら何にも無いよ!と女房に呆れられつつおでん屋に買いに行かせるのがガンモドキやハンペンなのだが、劇中の古賀さんの店で唯一酒の肴として俎上に乗る八等分のピッツァ・マルゲリータをゲットできたのが誰なのかどうかはあなたの目で確かめるべきである。

伊藤洋司(中央大学教授・「週刊読書人」映画時評担当)

<伊藤洋司先生からの手紙>

黒川幸則さま

昨日は『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』という素晴らしい映画を観させていただき、ありがとうございました。
私見ですが、今年の日本映画で、一、二を争う出来だと思います。
面白いことをやらせて、それを面白く撮って、それを面白く繋ぐ。
こんな単純なことをこれほど徹底してやっている映画を久し振りに観ました。
この映画は21世紀初頭において、60年代ゴダールを最も正統的に受け継いだ映画だと思います。
ゴダールはああいう90度や180度の繋ぎはしないんですけど、
そういう形式のことではなくて、画面に対する姿勢が60年代ゴダールだということです。

とはいえ、それだけではこの映画はしばしば劇場にかかるよくできた秀作で終わってしまったかもしれません。
そうではなく、この映画が傑作となったのは、やはり、女の歌の場面があったからでしょう。
夜のレストランで、中西がギターを弾いて、女が歌う。
あの場面を撮れたことが、黒川さんの突出した才能の証明です。
ヌーヴェル・ヴァーグの歌の素晴らしさがあそこで蘇りました。
特に、60年代ゴダールのアンナ・カリーナの歌を思い出しました。
ゴダールだったらここで窓の外からの長回しはしないでしょうが、それでもゴダール的ですし、
ゴダール的なのにここで窓越しに女の歌を撮る黒川さんに、力強い個性を感じました。
川の女の歌だから、セイレーンの死の誘惑の歌声でしょうか。
幽霊の女を演じたのはなんという女優さんですか。
そもそもなんという曲なのでしょうか。

普通なら、絢と幽霊の女は逆のキャスティングでしょうが、
この配役で映画に独特の味わいが出てきましたね。
どんなふうにしてこんな配役になったのでしょうか。
あと、独特なリズムで90度や180度カメラの向きが変わる編集は、
どのようにして思いついたんですか。

それから、棒読みの台詞回しがとてもおかしくて良かったです。
あと、川の女が夜の川辺で缶ビールを手にしたショットも素晴らしかった。
顔が映らず、手と足だけが映って。
ブレッソン的ですが、ブレッソンともちょっと違うんですよね。
「チャーミングだ」と中西が言って、絢が左頬を打つ時の、
間髪いれぬ素早さもよかったです。
綾と中西、幽霊の女と中西、男女二人の場面にいいものが多かったですね。

またいつかお酒を一緒に飲めたらなあと思います。